2016年12月4日日曜日

冲方 丁さんの書いた、「天地明察(上)」を読んで、読書感想を書きました。

冲方 丁さんの書いた、「天地明察(上)」を読んで、
2012年12月、私は下の通り読書感想を書きました。
写真は、本の表紙を、撮ったもの。
2012年12月6日、私の妻がガンで死んだ。
動揺していたのだろう。

この後の、(下)の感想と合わせると、変なことが沢山あった。
でも、そのまま載せることにした。
妻が死んでから、しばらくして読書感想を書かなくなった。
だから、もう少しでこの読書感想のシリーズは、終わる。

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読書感想文(天地明察(上)・・・冲方
 
冲方 丁さんは1977213日、岐阜県各務原市で生まれ、

<4歳から14歳まで、5年間ずつ、
<シンガポール、ネパールで過ごしました
<そして、川越高校から早稲田大学に行きましたが、
<学生中に作家デビューし、作家生活に突入するため、
<大学を中退します。
 
<その後福島市に住みましたが、
<東日本大震災で北海道に行き、
<十勝に住む予定と言っていました。
<面白い若い作家だと思います。
 
冲方 丁さんは1977213日、岐阜県各務原市で生まれ、
それから千葉に移り住みました。
4歳から14歳まで、5年間ずつ、
シンガポール、ネパールで過ごします
お父さんに着いて行ったと思いますが、
お父さんは何をしていた人なのでしょうか。
 
4歳から14歳までなんて、
人が最も自分の価値観を固めるときだと思いますが、
外国でどんな体験をしたのでしょうね。
コンサイス和英辞典、英和辞典を
擦り切れるほど読んだそうです。
 
また、日本の本を、
日本からのお客様が持ってきてくれますが、
シリーズで持って来てくれるわけでなく、
断片的に読む日本のマンガなどから、
残りを想像で埋めることもしていました。
 
学校は
地元のインターナショナルスクールに行ったようですが、
もの心つくとき外国にいましたから、
日本語にもハングリーになっていたようです。
 
そして14歳になって日本に帰ってきて、
アニメを見ると、
最初から最後まで、セリフを諳んじられたそうです
(今はできないそうですが)から、
いくら日本語にハングリーであったとはいえ、
このころから天才的でしたね。
 
川越高校は、「ウオータボーイズ」
(私は見ていないので知りませんが、男子生徒が
シンクロナイズドスイミングに挑戦する映画だそうです)
のモデル校になった高校で、
部活では、全部がヘンなことをやっていました。
 
冲方 丁さんは、
美術部と仮想現実同好会に入っていたそうです。
同好会ではいろいろなことをやっていましたが、
冲方 丁さんは、「リレー小説」で7人が、
前の人の書いたものを受けてつながるように
自分のパートを書く、小説をやっていました。
 
なるほど、制約の多い不自由な文章づくりを繰り返す作業を、
冲方 丁さんは、小さいときからしているのですね。
マンガもアニメも小説も、冲方 丁さんの仲間は
フラットで同じ延長上と感じていました。
そこからメディアを理解しようとしていたようです。
 
冲方 丁さんはこの時代、哲学書にも関心をもちましたが、
そのとき分らないと書き写す作業をしていました。
美術部では油絵をやっていたそうです。
 
冲方 丁さんは高校時代、絵で食べていくか、
小説で食べていくか考えていたそうですが、
高校の終わりには、活字で生きようと考えました。
高校生でこんなことを考える風潮のある、
川越高校も変な高校と私は思いますが。
 
早稲田大学に入りましたが、ゲームの会社にも入り、
18歳で「黒い季節」で、何の賞だか私は分りませんが、
冲方 丁さんは受賞して19歳で本を出しました。
そして大学を中退し、ゲームやアニメの作家もするなど、
これまで今の時代を、この歳の人では社会の先頭をきって、
生きてきたと思います。
 
そして今はハンサムな若きSF作家となりました。
日本SFクラブ会員にもなっています。
そして「マルドック・スクランブル」で日本SF大賞、
「天地明察」で、吉川英治新人賞、本屋大賞を受賞しました。
福島市に自宅がありますが、東日本大震災で北海道に行き、
十勝に住む予定と言っています。
 
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<この本との出会い>
 
私は誰に勧められたか忘れましたが、
誰かにこの本は面白いから読めと言われました。
読んだら、確かに面白い小説です。
ちょうどこの本を読んでいたとき、
学校(福島高専)時代の友達とも懇親会で会いました。
 
その懇親会でもこの本を話題にしたのですが、
この本は私の学校時代も思い出させてくれています。
私はこの本から、刺激を沢山受けました。
私はこの本にあった、数学の問題を解いたのです。
結局解けましたが、解くために半徹夜までしました。
 
まったくこの本は、私の原点を思い出させてくれます。
50年近く前の学生時代のころ、
私はこの主人公の渋川春海さんと同じように、
数学にハマッテいたのでした。
 
この本は上下に別れています。
今回は、その上についてだけ触れました。
下巻の解説で、養老猛さんが、
この本はスンナリ読めるし面白かったと言っていましたが、
私も同感です。
 
知らない冲方 丁さんについて、
その小説を自分の感想だけでほめる養老猛も、
私は改めて好きになってしまいました。
私はそこに、養老猛さんの自信を感じます。
 
冲方 丁さんはこの小説についても、
この難しい話を私でも分るように、
そして味わい深く書いていました。
こういう感性がないと、
ゲームやアニメ作家として大成できないのでしょうか。
あらためて、ゲームやアニメを私は見直しました。
 
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<この本の構成>
 
この本に書いてあることは、次の通りです。
( )内はページ数です。
 
-序章 (5ページ)
-第1章 一瞥即解(77ページ)
-第2章 算法勝負(109ページ)
-第3章 北極出地(92ページ)
 
上巻に書いてあることで、
大事だと私が思うことを並べれば、次の通りです。
 
「それまで使われていた宣明暦を、
より正確な暦にするための物語です」
「幕府で指導碁をする安井家の安井算哲
(またの名を渋川春海)が、物語の主人公です」
「算額絵馬を通じて間接的に、主人公の渋川春海が、
同じ年齢の算術の天才関孝和に会います」
 
「関孝和にいたく感激した、渋川春海は問題を作って
算額絵馬を、関孝和にあてて神社に奉納します。
算術の塾にも同じ問題を出して張り出しました」
「でもその問題は解答不能、つまり問題が収束していなくて、
関孝和から「・・」と書かれます。
それは渋川春海にとって、ショッキングなことでした」
 
「北極星を観測することからその土地の緯度が分りますが、
失意の渋川春海は北極星を日本全土で観測する
プロジェクトに参加し、失意を忘れます。
なにしろ、全国の緯度を測るのですから、
土地の大名からそのプロジェクトは、
幕府のスパイ行為をすると思われていました。
 
だからそのプロジェクト遂行は、
科学技術の純粋さ・努力と
政治の世界の折衝力を両方試される、
修羅場での悪戦苦闘です」
 
江戸時代に幕府の要路の面々の人に指導碁を打てたのは、
「安井」「本因坊」「井上」「林」の4家です。
そのうちの「安井」家に属する、
安井算哲(またの名を渋川春海)のお父さんは、
碁が上手であることを徳川家康に気に入られて、
4家の一つになりました。
 
安井算哲(またの名を渋川春海)は、
このお父さんの歳がいったときの子供です。
お父さんは、自分の本当の子が生まれる前に
子供がなかなか出来ないので、碁の上手な養子を貰い
その人が安井家の安井算知と言う名前の長男となりました。
 
本当の子、安井算哲(またの名を渋川春海)は、
義理のお兄さん、長男とは大分歳の離れた
次男となり世継ぎの立場は微妙です。
 
この義理のお兄さんの安井算知は、碁も強かったのですが、
性格的にも立派な人で、会津藩に見込まれて、
実家のある京都とは別に、
江戸にいるときは会津藩邸に住みました。
 
従って、安井算哲(またの名を渋川春海)も、
京都にいるときは実家、
江戸にいるときは会津藩邸で過ごしています。
 
渋川春海は、純粋で世俗的なことは
なにも考えていない人のように私には思えました。
そして、その純粋さんのゆえに、
まわりから引き立てを受けます。
 
だから、幕府として大事なプロジェクト北極出地に、
筆頭老中の酒井氏に言われて、
次代を担う若手として若干23歳の若さで参加しました。
このプロジェクトは1年を越える大仕事です。
プロジェクトへの参加の要因には、
普段の渋川春海の態度もありました。
 
渋川春海は算術が好きです。
また渋川春海は、毎日、日時計の観測を続けていました。
これらは全部、暦の改訂につながります。
そしてリーダとして、このプロジェクトを推進した、
建部昌明と伊藤重孝の二人の老人にも可愛がられて、
薫陶を受けました。
 
渋川春海は江戸では、会津藩邸に住んでいました。
このプロジェクトの前のとき、
会津藩で算術が得意な安藤有益から
渋川春海は、江戸では算額絵馬が
神社に奉納されているのを教えられます。
 
それを聞いた渋川春海は、
渋谷宮益坂の金王八幡に行きました。
そこで間接的な、関孝和との出会いも経験します。
奉納された絵馬の問題7題について、
ちょっと見ぬ瞬く間に答えが書かれていました。
 
渋川春海は目を疑いますが、書かれているのです。
そして、それはどれも正解のようでした。
その解答を書いたのは、関孝和です。
この関孝和との交流が、渋川春海の江戸時代の暦の改訂を、
世界に誇れるものにしたように、私は思いました。
 
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<本のタイトル天地明察の意味>
 
「天地」は、観測される空の星々と、
私たちが立つ大地を言っています。
この小説の舞台、江戸時代の初めには、
算術の問題が書かれた算額絵馬を、
神社の境内に奉納するのが流行りました。
 
で、解答欄にまるで出題者=絵馬の奉納者とは
関係ない人が、「問題の解答はこれ」と思ったら、
その解答を算額絵馬の空白のところに書き入れます。
それが正しいと、
絵馬を書いた人によって、「明察」とかかれます。
 
そして解答が間違えていれば、
「誤謬」「惜しい」等がかかれました。
だから、この本は「天の星」に関して「正解」を意味する、

「天地明察」をタイトルにして、
この物語の主題を説明すると同時に、
当時の算術にそそぐ江戸の熱い気風をも表しています。
 
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<序章
 
「暦」は、農事等私たちの生活に密接なものです。
それで神社は、暦を作ってそれを販売していました。
その利権も莫大なものです。
「暦」を仕切っていたのは、京都の朝廷で、
天皇の近くにいた「賀茂」家や「土御門」家でした。
 
渋川春海、言い換えれば幕府が仕掛けて、
天皇とこれらの家を巻き込んで行われた、
暦の改訂については、下巻で語られているのですが、
その最後のほうで語られる暦改定の描写が、
この序章で先行して行われており、
この本全体が、暦の改訂の物語であることを示しています。
 
ちなみにそれまでに使われていた、
暦として使われていた宣明暦は、
唐の時代に使われていたもので、
日本では平安時代の清和天皇の時代、
862年から使われるようになりました。
 
そして、改訂されるのは、この下で扱われますが
1685年ですから、
823年日本で使われてきたことになります。
この800年間で2日ズレが生じてきて、
ズレが日本の有識者にはわかるようになってきました。
そしてこの物語が始まるのです。
 
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第1章 一瞥即解>
 
この章は、幕府の要路面々に指導碁をする安井算哲
(渋川春海という別名もある)という23歳の主人公が、
同じ年齢の関孝和と、直接ではなく、
神社に奉納する算額絵馬を通じて会うことを描いています。
 
渋川春海は、
渋谷宮益坂の金王八幡に算額絵馬を見に行きました。
そこで、短い間にそこで出されていた、
問題が解かれていたのに出くわします。
といたのは、関孝和でした。
 
それから渋川春海は、関孝和に畏敬の念を持ちます。
問題を出していたのは、磯村塾の塾頭村瀬義益でした。
 
江戸時代の算術の説明書(関孝和以前ですが)は、
大きく2つありました。
1つは「塵劫記(じんこうき)」、
1つは「竪亥録(じゅがいろく)」です。
 
ひとことで言えば、「塵劫記(じんこうき)」は、
吉田光由が書いたもので、
町人の生活算術をやさしく解説しており、
当時の人々から絶大な人気を誇りました。
 
また「竪亥録(じゅがいろく)」は、今村知商が
武士の弟子たちからの求めに応じて漢文で書いたものです。
中国で知られていた術理を、
今村知商が独自に発展させたもので、
解説はあまりなく、難しいものでした。
 
そしてこの「竪亥録(じゅがいろく)」を解説したのが、
磯村吉徳の「算法闕疑抄」であります。
そして、その磯村塾が麻布にありました。
でも実際は、ほとんど地方に行っていていなかった
磯村にかわり塾を運営していたのが、村瀬義益です。
 
関孝和はこの塾にも出入りしていて、
あまりの関孝和の出来のよさに、
関孝和は「一瞥即解」(一目見ただけで解答する)さん、
または「解答さん」あるいは、
塾にも入らずただで問題を解いてしまうので、
やっかみもこめて「解盗さん」と呼ばれていました。
 
そこで渋川春海は、問題を出した磯村塾に行きます。
そこで、気さくな村瀬義益あいました。
もう一人と会います。
それは磯村塾(実際は村瀬義益が運営しています)に、
部屋をただで貸していた荒木孫十郎の末娘“えん”です。
 
渋川春海も“えん”も別に結婚しますが、
二人とも相手と死別し、最終的には二人は結婚し、
晩年まで一緒に暮らして、死ぬ時は同じ日に死んだとか。
仲が良かったのですね。
この“えん”を映画では、
宮崎葵が演じて、なかなかの魅力だったそうです。
 
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第1章を読んで、
<ほぼ50年前の自分の学生時代を思い出した
 
第1章に、磯村塾を預かる(塾長の)村瀬がだした
7つの算額絵馬に、一瞥のうちに解答してしまう、
関孝和が出てきました。
その関孝和に渋川春海は感動し、
関孝和が渋川春海の生涯忘れえぬ人になったと思います。
 
その7題のうち1つが、
この本の1章の前から20ページのところ
(1章は77ページですから、その前の方でもありますね)
に出ていました。
私はその問題に手が届きそうで、
すぐには分らないことに感心しています。
 
その問題はピタゴラスの定理を満足する、
3(9尺):4(12尺):5(15尺)の
辺の長さを有する三角形に関する問題でした。
だから私は本に、補助線を書き込んだりしながら、
電車の中等で問題解きに挑戦しましたが解けません。
 
そしてこのときたまたま福島高専時代の友達8人と、
土曜日新宿で懇親をしました。
が私は席上、友達に
「この問題が解けるまで、この本の読書を前には進まない
と決めた」と言ってしまったのです。
 
それで家に帰って、この問題をやりました。
夜遅くまでやっても出来ません。
できないことに、私は絶望的な気分になって寝ました。
しかし、すぐ目が覚めてしまうので、
起きて今度は大きな紙に、問題の絵を書いて、
補助線を引きます。
 
いくつか試したら解答ができるではありませんか。
それでもう一度丁寧に、
計算しなおして、間違ったところは修正して、
きっと解答はこうであるに違いないと思いました。
そして、本の先を読み進めます。
 
そしたら、私の解答と同じ答えが、本にありました。
「そうだ、この気分は学生時代に、難しい数学の問題を
解いたときに起こったものだな」と思います。
なにか凄く高揚しました。
 
「この気分を忘れていた。これを機会に思い出して、
この後、趣味で数学をやろうか」などと思います。
半分徹夜で問題を解くとき、
寝床で昔、友達はどうしていたか思い出しました。
 
それと懇親会で、別な友達が、「Aさんは補助線を
上手に引いていたな」と言っていたのも思い出します。
そして補助線をうまく引けたら、解けたのでした。
「私の人生観が、これで変るかも知れない」と思った、
問題解きになったと思います。
 
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<第2章 算法勝負>
 
渋川春海は、時計=天の運行に興味を持ち、
会津藩邸の自室のそばに日時計を置き、
毎日観察し記録していました。
だから渋川春海は、
天の運行に関しては毎日考えていたと思います。
 
その思いを問題にまとめ(問題に出すことは、
出す人がその問題の解答を分ったことをも示します)、
算額絵馬に奉納し、また麻布の磯崎塾
(村瀬が塾をあずかり、塾を運営している)
の壁にも張り出します。
 
そこには、出題者の名前を出すとともに、
関孝和に向けた問題である
(当時の算額絵馬にはなかった風習)
ことも、書きました。
 
しかし、その問題は「無術」つまり解答がない、
ことが分かりました。
関孝和は「無術」と最初書きはじめたあと、
続けて文字にしようとしましたが、
出題者の気持ちを慮って、途中でやめてしまいます。
 
最初は関孝和が解答しない(無視されたと思った)ことに
「腹を立てた」、「なんでなんだと思った」
渋川春海でしたが、それが「無術」であることを
段々理解してきました。
渋川春海は、公衆の面前で恥をかいたことになります。
 
それを恥じて、渋川春海は切腹しようとしました。
それを“えん”がとがめます。
面白いやりとりでしたので、
“えん”が言ったことを、次に引用してみました。
考えてみると、なんてことのない言葉でしたが、
これを宮崎葵が言うと絵になるなと思います。
 
――「ほら、早くしまって下さい。
こんなところを父に見つかったら、
喜んで介錯すると言い出しかねませんから、
腹を切る前に首を落とされてしまうかもしれませんよ」
 
++++++++
<第3章 北極出地>
 
失意の渋川春海は、その失意のまま
「北極出地」というビックプロジェクトに行きました。
失意で最初は、元気がなかったのですが、
すぐ北極星観察にのめりこんでいき、
それで結局失意から開放されることになりました。
 
北極星を観測する機材は大掛かりで、
正しく、使わなければなりません。
また各地での北極星観察は、
土地の大名やその周辺から、
基本的には幕府の隠密仕事ではないかと思われました。
 
だから、この北極出地を成功させるためには、
失意なんて言っていられないほど、
やることが沢山あります。
 
それに渋川春海は、このプロジェクトの実施を、
苦労して周りを説得し進めたリーダ、
建部昌明と伊藤重孝に可愛がられました。
その利発さが、二人を動かしたものと思います。
 
そして1年以上に渡るこのプロジェクトの途中で、
建部昌明は亡くなります。
伊藤重孝だけが残りますが、
それを渋川春海は補佐して、事業をやり遂げました。
実際、目的を持って体を動かしたことは、
渋川春海に良かったと思います。

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