2016年12月11日日曜日

冲方 丁さんの書いた、「天地明察 下」を読んで、読書感想を書きました。

冲方 丁さんの書いた、「天地明察 下」を読んで、
2012年12月、私は下の通り、読書感想を書きました。
写真は、本の表紙を、撮ったもの。
私の妻は、2012年12月6日、がんのため死にました。
そのころ、この本を読んだのですね。

妻が死んでから、いろいろなことがありました。
まずそのあと、私は会社を作ってしまったのです。
サラリーマンで過ごしてきた、私は一度やってみたかった
会社を、2013年作ってみたのでした。
それと毎週本を読んでいたのを、それ以降やめてしまいました。
だからその後、読書感想を書くのもやめてしまったのです。

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読書感想文(天地明察 下・・・冲方
 
冲方 丁さんは1977213日生まれ、
<4歳から14歳まで、5年間ずつ、
<シンガポール、ネパールで過ごした外国育ちの日本人です
 
<早稲田大学を中退し、ゲームを作る会社にはいり、
<ストーリテラーの才能を鍛えました。
<そしてこの「天地明察」で、その才能を開花させ、
<また「水戸光圀」も書いた才能豊かな若手と思います。
 
冲方 丁さんは1977213日、岐阜県各務原市で生まれ、
それから千葉に移り住みました。
4歳から14歳まで、5年間ずつ、
シンガポール、ネパールで過ごします
お父さんに着いて行ったと思いますが、
お父さんは何をしていた人なのでしょうか。
 
お父さんは在日朝鮮人2世、
お母さんは元岐阜県知事の孫娘だそうです。
冲方 丁さんのお顔を写真でみると、
良い顔をしていて、軽やかに人生を生きる、
拘りの少ない人との印象を受けました。
 
これならゲーム作りに突っ込んで、
自分の才能を使い切るというのも分ると思います。
4歳から14歳までなんて、
人が最も自分の価値観を固めるときだと思いますが、
この人は外国でどんな体験をしたのでしょうね。
 
学校は地元のインターナショナルスクールに
行ったようですが、もの心つくとき外国にいましたから、
日本語にもハングリーになっていたようです。
そしてこのとき、一般の日本人とは違う、
冲方 丁さんの日本語と、ストーリに対する
フレキシブルな想像力が養われたのだと、私は思いました。
 
高校は、埼玉県の川越高校
(何故、川越高校なのかは知りませんが、
多分、向こうのほうに
お父さんが日本に帰って、住んだのでしょう)
に入っています。
 
部活では、「美術部」と「仮想現実同好会」に入りました。
同好会ではいろいろなことをやっていましたが、
冲方 丁さんは、「リレー小説」で7人が、
前の人の書いたものを受けてつながるように
自分のパートを書く、小説をやっていました。
 
なるほど、制約の多い
不自由な文章づくりを繰り返す作業を、
冲方 丁さんは、小さいときからしているのですね。
マンガもアニメも小説も私などは異質に感じますが、
冲方 丁さんの仲間はフラットで同じ延長上と感じていました。
 
そこからメディアを理解しようとしていたようです。
冲方 丁さんはこの時代、哲学書にも関心をもちましたが、
そのとき分らないとその哲学を理解するため、
自分のノートに書き写す作業をしていました。
美術部では油絵をやっていたそうです。
 
冲方 丁さんは高校時代、絵で食べていくか、
小説で食べていくか考えていたそうですが、
高校の終わりには、活字で生きようと考えました。
高校生でこんなことを考える風潮のある、
川越高校も変な高校と私は思いますが。
 
冲方 丁さんは早稲田大学に入りましたが、
ゲームの会社にも入り、18歳で「黒い季節」で、
スニーカ大賞を受賞して19歳で本を出しました。
 
そして大学を中退し、
最初は「セガ」でゲームやアニメの作家もするなど、
冲方 丁さんはこれまで今の時代を、
この歳の人では社会の先頭をきって、生きてきたと思います。
そして今はハンサムな若きSF作家となりました。
 
日本SFクラブ会員にもなっています。
そして2003年「マルドック・スクランブル」で日本SF大賞、
2010年に「天地明察」で、
吉川英治新人賞、本屋大賞を受賞しました。
福島市に自宅がありますが、東日本大震災で北海道に避難し、
これから十勝に住む予定と言っています。
 
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<この本との出会い>
 
この本の(上)を読んだら、強い刺激を受けました。
小説の最初のほうに出てくるのが、
神社に奉納される算額絵馬で、
そこには磯村塾の村瀬さんから出された、
算術の問題が7つあります。
 
その1つが「問題の内容」まで説明されていて、
思わずその問題に私は挑戦してしまいました。
50年ほど前の、
福島高専に在学中のことを思い出したのです。
 
「あのころが良かった」のかどうか忘れましたが、
少なくとも数学の問題を、
解くのに良くチャレンジしていました。
数学の問題に挑戦するって、しばらく忘れていましたが
「よし、これを解いてみるぞ」と、しばらくぶりに思います。
 
「できるだろうな」と思って土曜日の夕方、
布団にはいりながら始めたのですが、
しかし最初出来なかったので、そのときには焦りました。
本当は問題が解けなくて、本を読むのが前に進めず、
その結果この感想文を書けなくなることを想像したら、
恐れおののいたのです。
 
感想文はこれまで9年近く、
毎週なんとか書いてきたのに、
この問題が解けなくて挫折するのか、と思いました。
日曜日になって明け方2時ころ
(明け方というのには、外は暗いですが)になったので、
これは出来ないと諦めて寝ました。
 
でも15分ぐらいすると目が覚めてしまって、
その後寝られなくって、
「えーい、ままよ」と起きてしまいます。
大きな紙に、問題にある三角形と円を書いて、
補助線の引き方を工夫したら、解き方が分りました。
 
それで正確に問題を解いて、
「答えはこうだろう」と思ったのが、明け方です。
 
私は代数を用いてときましたが、
昔はそんなものなかったろうから、
代数を用いない解き方を考えようと思いましたが、
もう疲れていた私は代数を使わない
解き方を見つけるのは諦めて、
「もうこれで良し」と、本を前に読み進むことにしました。
 
本を読み進めたら、答えが合っていて、
「解けた」というのと、これで「読書感想文が書ける」と、
いうので私はほっとしています。
そして、こんなチャレンジをして、
「問題解き」を突破できたのは久しぶりだと思いました。
なんだか、これで私のこのあとの
人生の過ごし方が、変るかなと思いました。
 
そういう経緯もあって、この(下)はすぐ買って読み始めす。
そしたら(下)には(上)とは、違った趣がありました。
なるほど主人公の渋川春海が江戸で寝泊りしていたのは、
会津藩かと思います。
会津藩といえば、
武田惣角(18591943)を私は思い出しました。
 
津本陽が合気道の天才(過去の日本武道史上で名高い、
上泉伊勢守や宮本武蔵と肩を並べるかそれ以上の)
佐川幸義(19021998)を
本「孤塁の名人」でとりあげています。
私もそれを、面白さと不思議さのなかで読みました。
 
この佐川幸義の師が武田惣角です。
津本陽の「孤塁の名人」にも、
武田惣角のエピソードがいくつか出ていて、
私にも武田惣角は印象深く感じました。
この武田惣角が会津藩士です。
 
だから本「孤塁の名人」を通じて、
会津の殿様は保科公であったことを、
私は知っていました。
会津は江戸時代の終わりの、白虎隊でも有名ですね。
 
会津藩が何故、
江戸幕府に最後まで忠実であったかというと、
3代将軍家光の異母弟で、家光から絶対の信頼を受けていた、
保科正之が会津藩の殿様になったからです。
家光は死ぬとき、保科正之を枕元に呼び、
徳川宗家を頼むと言いました。
 
4代将軍家綱の養育もまかされていた、
保科正之は病身だったのですが、
家綱から「調子がいいときだけ城に出て欲しい」との
要請を受けて、政治に間接的に参加します。
 
この保科正之が、会津藩で善政を敷いて、
飢饉のときも会津藩では餓死者がでないようにする等し、
会津藩領民から慕われた殿様となりました。
また、江戸幕府の政治にも関与しています。
 
戦国の世から戦を前提としない江戸に、
徳川家は変えていきますが、この江戸文化を作る過程で、
徳川家は、大胆な発想で思い切った施策をうっていきました。
そしてこの本を読んで、それらの多くが
この保科正之の提案であったことが分かりました。
 
例えば、玉川上水を作ることには、
江戸の守りの観点から反対するものが多かったのですが、
保科正之は賛成の意思表示をして作らせています。
このように保科正之は、副将軍格の特別待遇でした。
 
この保科正之が長い間、
静かに渋川春海をバックアップしていたのです。
だから、要所、要所で渋川春海はいい経験を積めたのでした。
そして保科正之は暦の改定を、
渋川春海に託すことになります。
 
保科正之は、囲碁で徳川家に仕え、
会津藩が後援していた安井家の渋川春海(別名、安井算哲)が
算術に興味を持ち、天文にも興味を持ち、
しかも私利私欲のないところが気に入ったのでしょう。
この2人のやりとりは面白いです。
 
そして、江戸を戦国の荒々しい時代から、
戦を前提としない江戸初期の元禄文化に、
江戸幕府は変えていったのでした。
 
人々の価値観を変えていく過程では、
あつれきも沢山ありましたが、
それをゆっくり、時間をかけて変化させていく手腕に、
保科正之の凄さを感じます。
 
江戸の大火で、江戸城の天守閣が燃えたときも、
江戸の町の復興を優先して、
江戸城の天守閣の修復は(今も)行われていませんが、
この修復をさせない施策も保科正之がリードしました。
 
この読書は私に江戸時代初期、
日本のリーダにこんな人もいたのだなと言うのを
分らせてくれています。
 
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<この本の構成>
 
この本に書いてあることは、次の通りです。
( )内はページ数です。
 
-第4章 授時暦(97ページ)
-第5章 改暦請願(71ページ)
-第6章 天地明察(102ページ)
-解説  養老孟史(6ページ)
 
この物語は、渋川春海が改暦を成し遂げるものがたりです。
どのように、改暦がなされたのか。
どのように一流であることができたのか。
この本を読んで思ったのは、
作者の冲方 丁さんは、さすがにゲームなどの
シナリオライターをした人だなということです。
 
書くべきことをそろえて、
それを空間に上手に配置していることです。
なるほど、ここに1つの時代の
新しい流れがあるのだと思いました。
 
これからは小説も、
チームで作られるものになるなと思います。
そして、その手法は絵画的とも思えるものでした。
 
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第4章 授時暦
 
第4章で、江戸を保科正之が、
どう変えたかを私は理解しました。
 
そして間違いが目だってきていた、
それまで800年間も日本で使われていた暦の宣明暦
800年間で2日の僅かなズレですが、このときは
その僅かの誤差が悪さをするのがメダってきました)を、
新しい暦に変えることを、保科正之は渋川春海に託しました。
その改定の基本は、中国の新しい暦、授時暦です。
 
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第5章 改暦請願>
 
第5章で、渋川春海は、天皇に改暦の上奏をしました。
それには、天皇の周りの
暦で有名な人も仲間に入って貰う等します。
そして、しかも渋川春海は、
幕府の人間としてではなく、個人として上奏しました。
 
幕府の色は見えないように、
そして実際、朝廷と幕府の共同での改暦作業になるように、
渋川春海は細心の注意を払います。
 
その上で人々を暦に注目させるべく、
渋川春海はライバル達と、
日食の時刻の「あってこ」をしました。
従来の宣明暦の方法で日食の予定日を予測する
「従来がいいとするチーム」と、
授時暦で日食の予定日を予測する「渋川春海のチーム」です。
 
これで暦に世間の注目を集めました。
そして6回の日食の日を2つのチーム
(本当はもう1チームあって3チームで争ったのですが、
ここでは分りやすく2チームにしておきます)
が「あてっこ」をして、世間の関心を暦に集めたのです。
 
このセンセーショナルなやり方を、
争碁を経験した渋川春海(安井算哲ともいう)は、
世間の注目を集めるのに効果ありとして進めました。
争碁は碁所(碁の大御所)を巡って、安井家と本因坊家が
碁の勝負を、将軍の前で連続して争ったものです。
 
結局、渋川春海(安井算哲ともいう)が属する
安井家が敗れ、本因坊家が勝ちましたが、
このとき世間の耳目がこの争碁によって、
碁に集まったのでした。
 
話を日食の「あてっこ」競争に戻しますが、
日食の予測の5回の勝負に
渋川春海チームはことごとく勝って、
朝廷も幕府も「渋川春海の案」でいこうと
印鑑を押そうとしていたときに、
 
最後の日食の予測で「渋川春海のチーム」が、
ほんの僅かですが敗れます。
日食の予測という大勝負に、
世間の注視を集めたなか渋川春海は敗れました。
 
それは自信を持って、この勝負に挑んできた
渋川春海にとっては、ショックなことです。
そして大老酒井が「算哲(渋川春海のこと)の言、
また合うもあり、合わざるもあり」と言いました。
これで急速に、改暦の機運は消滅していきます。
 
渋川春海は落ち込みました。
なにも手がつかないという状態で、
渋川春海の時が過ぎて行きます。
このとき、映画では宮崎あおい演じた「えん」が、
この落ち込んだ渋川春海のところにやって来て
情報をもたらしました。
 
最後の日食の「あてっこ」競争に
渋川春海チームが敗れたとき(半年前)に、
渋川春海を名指しで
関孝和が塾に問題を出してきて公表したのです。
 
その問題には渋川春海のチームが頼りにしていた
授受暦の限界が分る、問題がありました。
落ち込んでいた渋川春海は、
この関孝和の問題を半年も見ていません。
 
実はその問題は、
最初に渋川春海が関孝和に出した“病題”でした。
そして、それを考えることで、
「あてっこ」で渋川春海が頼りにしていた、
中国で先進的であった授受暦の限界が分ったのです。
 
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第6章 天地明察>
 
第6章は、渋川春海が関孝和のところに行って、
ののしられるさまから始まりました。
私はここを読んで、結構つらかった思いをしています。
そして最後に関孝和は言いました。
「授時暦を斬れ、渋川春海」「頼んだぞ、囲碁侍」。
 
そして、渋川春海は「士気慄然、勇気百倍」になります。
誤りが分かって、やるべきことの目標ができると、
理解は進みました。
 
渋川春海の最初の愛する妻は病弱で、早くなくなりました。
そして“えん”の最初の夫も
出張先で、病気のため早死にしています。
そして渋川春海は関孝和にののしられて、
そのあと関孝和から、関孝和の考察を渡されて、
その足で“えん”のところに行きました。
 
そして、「嫁にきてくれ」といいます。
ものには段取り・順番がありますから、
そう簡単に結婚できたわけではありませんが、
“えん”は「1年の次は3年、その次は10年ですか。
だいたいあなたが期限を守ったことがあるのですか」
 
「家が許すのでしたら、
今度こそあなたが期限を守るよう、
そばで見張って差し上げます」。
それから1年余後の延宝5年春、2人は祝儀をあげました。
 
そしてその後、改暦を成し遂げる、渋川春海が語られます。
囲碁の布石をうつように、
困難な改暦の環境を整えていき、
長丁場の戦いに渋川春海は、こんどこそ勝利しました。
 
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解説 養老孟史>
 
私は養老孟史さんの解説を読んで、うれしくなりました。
その通りと思ったのです。
 
見も知らない冲方 丁さんを、
養老孟史さんは読んでほめているのでした。
書いた人がどんな人でもいい。
私が読んで面白ければそれでいい。
 
養老孟史さんの自分を信じる姿にも、
何か世のなかには面白い人がいるなと、
私は感心したのです。
以下に、
養老孟史さんの解説の最初の部分だけを、引用しました。
 
――手にとって読み出して、とても面白い小説だなと思った。
まったく予備知識なしに読み始めたから、
いったい何の話か分らない。
ただタイトルの「天地明察」は読んでいるうちに、
ああ、そういうことか、とわかってきた。
 
算額なんて、たぶん多くの人が知らないじゃなかろうか。
算数の問題が出ていて、絵馬のように、神社に飾ってある。
だれかがそれに答えてもいい。
回答を書いて飾っておくと、
正解だと「明察」という賛辞が出題者からもらえる。
 
出題した人も、正解した人も、嬉しいだろうなあ。
今は先生が問題を出して、生徒が正解をする。

どっちもあまり嬉しくない。・・・

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