2017年8月13日日曜日

2007.8.8に長野で脳溢血で倒れたーー9.退院に妻の弟さん夫婦が長野まで車で迎えに来てくれた

もう長野で脳溢血で倒れ、10年がたってしまった。
10年生きるのが当面の目標と思っていたから、
当面の目標は達成した。
次の目標は、75歳の誕生日2022.12.21だな。
それまでに死んでしまうかも分からない。

長野で病院を退院して、
また東京での生活に戻ったのだが、
東京に帰ったのは妻の弟さん夫婦に
車で迎えに来て貰ってだった。
その顛末を・・・の下に書いた。
なお写真の車は弟さんの車とは関係がない。

・・・・・・・・
私は最初の頃、2週間での退院の希望を妻に言った。
妻は「最低でも4週間は入院してなさい」と言った。
私はリハビリを受けて、妻が正解だと思うようになった。
しかし私が望んだわけでもないのに、
結局間をとって3週間で退院することになった。
 
私はリハビリを受けて、指定されたさまざまなことを
出来ないかったことに、早期退院を諦めていた。
しかし多分、私の手術をした先生は乱暴だから、
退院も早めたのだと思う。
なにしろICU室から一般病棟に移るときも、
看護師さんの常識を覆して早めた人だから。
 
退院するとき先生にお礼をしようとしたら、
宮崎看護師長は言っていた。
「あの先生は異動して別な病院に行った。
あういう先生は勉強するため異動が早いから」。
本当はなぜ早い異動だったのか、今も知らない。
 
8月末、退院の迎えに、妻の弟さん夫婦が車で来てくれた。
妻の弟さんは私のマンションのそば
というか妻の実家のそばの大田区の沼部に住んでいる。
奥さんが退院の手続きをしてくれた。
 
「東京ではどこの病院が良いか」と退院のとき聞かれた。
病院間連携があり、長野市民病院での経過を引き継ぐそうだ。
普段東京で行っているのは関東病院だったが、
そこに行くと知っている人が必ず何人かいる。
そこでどうしたのかと聞かれ、それにこたえなければならない。
 
それも嫌だなと思って、妻の父親が通ったり、
入院していた日本医大付属武蔵小杉病院を選んだ。
そして今も、日本医大付属武蔵小杉病院に通っている。
最初2ケ月に一回だったが、途中から3ケ月に一回に変わった。
今は薬をもらいに行っているようなものだな。
 
何か離れるとなると長野市民病院も懐かしい。
最後のころはわけもなく病院のあちこちを歩いたから。
車に乗って外へ出たら、病院の周りはリンゴ畑だった。
リンゴはこういうふうにたわわに実るのだなと思った。
病院の大広間で毎日見ていた高いアンテナが近くに見えた。
 
高速道路に乗った。
奥さんが「お兄さんがこんなに元気だと思わなかった」と言った。
私は嬉しくて少しはしゃいでいたと思う。
五反田で高速道路をおりて第二京浜国道を走り、
多摩川大橋の少し手前を右に曲がり私のマンションに着いた。
 
マンションの部屋に入ると布団が敷いてあった。
妻が敷いていてくれたのだ。
なにか温かさを感じた。
そうか、またここで生活するのだなと思った。

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